2009年11月19日木曜日

ヨーロッパ毒性学会に参加してきました(2)

今回のドイツ出張は、ヨーロッパ毒性学会参加以外にもうひとつ目的がありました。それは、森千里教授を中心として千葉大学が取り組んでいる「予防医学を基盤とした街づくり(Town of Public Health Project = TOP 構想)の一環として、ベルリンのBerlin School of Public Health (BSPH) との連携を進めるために、BSPHの担当者と会うことでした。

森がインターネットで検索していて偶然見つけたBSPHですが、public health (公衆衛生)を専門とする高レベルの人材を育成する必要性を訴えてきたDr. Urlike Maschewsky-SchneiderDr. Gabriele Kaczmarczyk が中心となって活動し、2007年に開校したそうです。Maschewsky-Schneider先生はもともと工科大学にいらっしゃったとのことで、医師であるGabrieleさんと公衆衛生の学校を作らなければならない、と考えたのだそうです。

ちなみに、School of Public Health として世界で最も有名なのが、アメリカのハーバード大学のそれです。通常は大学医学部に一研究室として「公衆衛生学」の教室がある(日本の大学でもほとんどがそうです)のですが、ハーバードのSchool of Public Health は、独立した組織で、世界中から研究者が集まります。日本の厚生労働省からも、医系技官をここに派遣して学ばせています。

BSPHは、ベルリン郊外の元電球製造工場の建物を改装して、大学施設や警察署、貸しオフィスなどにしている建物群にありました。外観は1880年代の建築当時のまま残し、内部を改装したとのことで、とても美しい建物です(写真左)。

彼女らとの話の中で興味深かったのは、ドイツの有名な医師、ルドルフ・ウィルヒョウ(写真右)は、ベルリン大学(現フンボルト大学)で教授として研究・教育活動をする一方で、議会になんども足を運び、公衆衛生の充実を訴え続けていた、ということです。両先生方によれば、「政治力のない公衆衛生なら、ないのと同じだ」とのことで、確かに公衆衛生は、社会のシステムや人々の考え方を変えていくことなので、国レベルで政策や法律の変更が必要となってくるケースが多いでしょう。

ちなみに、ウィルヒョウは、森千里教授の曽祖父、森鷗外がドイツ留学時に学んだ先生です。今年(2009年)は、鷗外がドイツ留学をして125年目の節目、ということで、ベルリン滞在中に森が「鷗外が学んだ衛生学と現代のTOP構想」というタイトルで講演をしました。

場所は、旧東ベルリンの「森鷗外記念館」の講義室で、40名程度しか入れない部屋でした。それでも「鷗外なんてドイツの人は興味ないだろうし、本当に人が集まるのか」と不安でした。ところが、当日は多くのドイツの方にもおいでいただき、ほぼすべての椅子が埋まっていました(写真左)。

このベルリンの鷗外記念館は、1960年代にフンボルト大学(旧ベルリン大学)の日本語科の関係者や日本企業関係者、日本の文学界の方たちの尽力によって当時の東ベルリンで開館されたものです。

ここの事務局を長年担当していらっしゃるベアーテさんは、鷗外のことを知り尽くしているのではないかと思われるくらい、本当に詳しく研究していらっしゃいます。彼女いわく「もし漱石がドイツに来て、鷗外がイギリスに行っていたら、この記念館はなかった。鷗外は、ドイツの衛生学を勉強することを目的に来たが、彼が3年間の留学中にしたことは単に医学の勉強だけではなかった。

ドイツ語に苦労しなかったこともあり、わずか3ヶ月で後のノーベル賞受賞者の全集24巻を読みきっている。ドイツ人でもそんなに早く読めないのに、鷗外はさらに赤字でしかも漢文で注釈を入れ、驚いたことに印刷ミスには全部チェックが入っている。東京大学の『鷗外文庫』で鷗外の持ち帰った本を見たとき、そのすごさに鳥肌が立った」ということでした。鷗外は、ライプツィヒ滞在中にゲートの「ファウスト」を翻訳することを日本人留学生の友人と約束し、帰国後ファウストを翻訳しています。

今年4月、ライプツィヒの有名な老舗ビヤホール、「アウアーバッハス・ケラー」に鷗外の壁画が作られたと知り、今回ドレスデンからベルリンに移動する途中、ライプツィヒに立ち寄ってきました。ビヤホールで昼食を取り、鷗外の壁画(写真下)を見て満足し、外に出てきたところ、ドイツ人の年配の男性が近寄ってきて、「あなた方はこのビヤホールに鷗外の壁画があるのをご存知か。私は昔日本語を勉強したが、鷗外がファウストを日本語に翻訳した、というのは信じられないくらいすごいことだ」と力説されるのです。

30年前に、5年間日本語を勉強し、日本語の辞書の作り方について学んだのだそうです。「たった今、食事をして壁画も見てきた。実はここにいる森は、鷗外のひ孫だ」と話すと、目を丸くして一緒に写真を撮ってくれ、と頼まれました。

鷗外・漱石というと明治の文豪といわれますが、かつてはどの教科書にも載っていた鷗外・漱石の文章が、次々に消えていっています。今の若者たちの中で、鷗外を学校で学んだ、という人も少なくなっています。しかし、今回鷗外のドイツでの足跡を追い、鷗外記念館の鷗外関係の資料を読み、鷗外がやろうとしていたことを考えると、本当に鷗外という人は天才だったのだ、ということが改めてわかりました。

鷗外はウィルヒョウや環境医学の父と言われるペッテンコフェル(ミュンヘン大学)から、人の健康に環境が与える影響は非常に大きいこと、単に大学にこもって研究しているだけでは人の健康を守れるものではないことなどを学んだのではないでしょうか。

鷗外がドイツで成した論文で有名なものは「ビールの利尿作用について」と「ベルリン市の下水中の微生物について」ですが、実は「日本家屋の民俗学的考察」という論文も出していて、日本家屋とヨーロッパの家屋の構造や材料の違い、温湿度の違いなどを比較し、日本人の住まいと健康について論じているのです。

日本では、一般的には鷗外というと文学者というイメージが強く、明治の文豪というと「鷗外・漱石」といわれました。しかし、鷗外がヨーロッパから持ち帰ったものは、衛生学の基本、という本来の目的をはるかに超えて、西洋の文学や美術の紹介(鷗外は、「美術解剖」という本も出しています)、オペラの紹介(実際オペラの台本も書いています)、さらには当時のテクノロジーや科学の紹介もしています。

250年もの鎖国期間を経て開国した際、当時の日本人がどのように感じていたのか、非常に興味深いものがあります。特に当時の若者たちが、混沌とした世情の中にも不安をはるかにしのぐ希望、期待、夢を持っていたのではないかと想像すると、自分がその当時生きていたらどんなことを夢見ていただろうか、と考えることがあります。鷗外のようにドイツに留学でき、ちゃんと帰国ししかも立身出生を果たした人はほんの一握りでした。ようやくヨーロッパにたどり着いても、病気になり亡くなった方たち、せっかく日本に帰ってきても思うような仕事ができなかった方たちがたくさんいらっしゃるのです。そう思うと、日本が経済的に成長し、日本円が強くなったおかげで自由に海外旅行や出張ができる現代の日本人は本当に幸せだと思います。

私も1989年から3年半、カナダのケベック州のモントリオールという町にあるコンコーディア大学というところで学びましたが、発展途上国から留学している学生たちは本当に大変だと思いました。日本人は、車や電化製品の優秀さで世界中の人から一目置かれており、これも日本が発展途上にあったころの先輩たちの血のにじむような努力のおかげだ、としみじみ思ったのでした。

以前テレビで、1960年代にニューヨークに東芝の駐在員として滞在していた方のドキュメンタリーをやっていましたが、まだ1ドルが360円していたころで、お昼ご飯は屋台で買うソーセージ入りのパンだけしか食べられなかった、ということで「本当に苦労したよ」と涙ぐんでいらっしゃったのが忘れられません。そのような先輩たちの苦労を現代の私たちも忘れてはならないと思うのです。

2009年11月18日水曜日

ヨーロッパ毒性学会に参加してきました(1)

913日から16日までドイツのドレスデンで開かれていた「ヨーロッパ毒性学会」(EUROTOX2009)に参加してきました。

ヨーロッパ毒性学会は、毎年ヨーロッパのどこかの都市で開催されていて、私たちのグループ

もスケジュールが合ってその年に予算があれば出席することにしています。ヨーロッパだけで

はなくもちろん世界の各国から研究者が集まり、さまざまな毒性についての研究報告や、健康影響についての考察、改善方法、教育システムなどについて報告します。

今回私たちも、ケミレスタウンの活動の中から、ケミレス教室(シックスクール対応の教室)の提案、戸建住宅でのシックハウス対策の可能性、人の嗅覚による判定方法の可能性、化学物質に敏感な人をスクリーニングするケミレス必要度テストについて、ポスター発表してきました。

ポスター発表というのは、決められたサイズの一枚のポスターを掲示板に貼り、決められた時間、多くの人の質問に立つ、という発表方法です。

シックハウスはあまり大きなテーマではありませんでしたが、フランスの労働環境衛生に関する国の研究機関の方がたくさんの質問をしてくれました。フランスでは、室内空気中の汚染物質については基準が何も設けられていないのだそうです。日本でもホルムアルデヒドとシロアリ駆除剤のクロルピリフォスのみですが。

その方は、フランスのブドウ農場(もちろんワイン造りのための農場です)での戸外の、農薬による汚染を調べようとして、その対照(コントロール)として、その街の小学校の室内空気を調べたのだそうです。すると、建築後40年以上たつ小学校から、もう使用されていないリンデン(β-HCH)が30ナノグラム/m3程度検出された、とのことでした。濃度としてはそれほど高いわけではないのですが、問題は70年代に使用が禁止されていた農薬が、なぜ今でも出てくるのか、そして、今は濃度が低いけれども建築当初はいったいどれくらいの濃度だったのか、その小学校でずっと教鞭をとっている教師の健康にはどんな影響が出ているのか、といった点です。

まず、発生源の特定がなされました。リンデンが使用されたのは、小学校の屋根の室内側に使用された木材だったことがわかったそうです。建築の際に、この木材にリンデンをしみこませ、害虫が発生するのを抑えようとしたわけです。これがその後40年以上も室内に揮発し続けていたのです。

この研究者によれば、小学校の関係者に対して細かい説明会を何度か催し、住民や学校の先生方の疑問に答え、参加者全員で今後どうするかを考え、結局この小学校は老朽化もあって取り壊し、今はまったく新しい建物が建っている、とのことでした。彼は、「これまではいつも一方的に行政が『これこれこういう問題が発生しましたのでこうします』といって何事も決定していたのに、今回は興味のある関係者がみんな集まって結論を出したのがよかった」と言っていました。

それにしても、この小学校の汚染問題は、まれなケースなのでしょうか。調べたら、同様の事例がもっとたくさんあるのではないでしょうか。今、かつて建材の一部に使用されていたアスベストが大問題になっています。日本の大学でも、古い校舎を改修しようとしたら、壁の材料にアスベストが使用されているのがわかり、工事の期間が長引くことがあります。このような改修工事をする担当の方たちも、大きなリスクを負いながら工事をすることになるのです。

余談ですが、私がかつて新聞記者をしていたころも、アスベストが問題になったことがありました。1990年代のことです。当時環境庁長官をしていた方が理事をしていた学校の古い校舎の天井から、アスベストが見つかった、というようなことが一部メディアに取り上げられました。しかし、当時はまだ「アスベストは直接曝露しなければ問題ない」と多くの専門家は言っていたのです。たとえ天井に使っていても、封じ込められていればまったく問題ない、との意見を聞きました。私も何人かの方に取材しましたが、問題だ、と強く言う方はいらっしゃらず、記事にもしなかった思い出があります。ところが、この問題も、たとえばある医者は「アスベストを扱っていた労働者と肺の中皮腫との間には因果関係が明らかにある。直接曝露していた労働者だけでなく、家族も、周辺住民も被害を受けている。いずれ大問題になる」と地道な診療活動をして、アスベストの対策を訴えていたのですが、その声がメディアに取り上げられることはありませんでした。

中皮腫が非常に診断の難しい病気であることも原因の一つですが、やはり、「アスベストのリスクは非常に小さい」という一般的に浸透した考えがあったのだと思います。ところが、アスベストは時限爆弾のように、短期間曝露しただけでも数十年後に肺がんとなって影響が現れることがわかってきました。アスベストに曝露していた労働者の妻が、夫の作業着を洗濯していたために微量のアスベストを吸引し、それによって中皮腫になるなど、かつては誰も想像していなかったと思います。

このような現状を見ると、汚染物質のリスクの評価が非常に難しいことが改めてわかります。フランスの小学校のケースでも、長年その小学校で勤務している教師たちは、リンデン汚染によってどのような影響が出てくるのかを不安に思っているとのことですが、当然の不安でしょう。

私たちケミレスタウン・プロジェクトの研究者も、微量であっても子供やお腹の中の赤ちゃんが汚染物質にさらされたときにどのような影響が出てくるのか、よく見ていかなければなりません。近年、小児アレルギーが急増していますが、これは日本だけの現象ではありません。今年929日には、韓国から12名の医者や行政担当者らのグループが視察にいらっしゃいました。韓国でもアトピー性皮膚炎が非常に増えている、とのことでした。もともとアレルギーの素因があるところに、高気密の家に引っ越したためにそれがきっかけになったのでしょうか。もちろん、室内空気だけが原因ではなく、食物経由の汚染や日用品経由の何らかの原因物質への曝露も発症の引き金になっていることと思われます。現代社会は複雑ですので、いろいろな可能性を考えなければなりません。非常に難しい問題で、単純には結論は出そうにありません。